はじめに
データ分析の信頼性に関する興味深い研究が2022年に発表された。73の研究チームが全く同じデータセットを分析したにもかかわらず、「移民の増加が社会政策支援に与える影響」について、大きな負の効果から大きな正の効果まで、結論は大きく分かれたのである。
ここでより注目すべきは、各チームの分析手法の高度さは、この結果のばらつきをほとんど説明できなかったという点である。この発見は、データサイエンスの技術的な洗練だけでは解決できない本質的な課題の存在を示唆している。ビジネスマーケットや顧客の分析においても、同様の不確実性が潜んでいる可能性が高い。
システムの特性と分析手法
このような分析の不確実性に直面し、その本質を理解するため、分析対象となるシステムの特性について考察する。世界のシステムは、その「複雑さ」と「堅牢さ」という二つの軸で分類できる。
人体システムや生態系(免疫系や食物連鎖など)
- 複雑だが比較的堅牢(多重の制御機構により安定性を保つ)
- 攪乱に対する強い回復力を持つ(均衡状態に戻ろうとする)
- 予測可能性が比較的高い(統計的な法則性を見出せる)
マーケットや組織システム(株式市場や企業組織など)
- 複雑かつ脆弱(予期せぬ連鎖反応が起きやすい)
- 要素間の関係性が時間とともに変化(コロナ禍前後の価値観の変化など)
- 因果関係の特定が困難(異質性が高く同一施策でも異なる結果に)
基本的な物理現象(高校で学ぶ物理や化学的なもの)
- 比較的単純で堅牢(限定された条件下での法則化が可能)
- 再現性が高い(値引きや増税に対する消費行動など)
- 実験的検証が容易(統制された環境下での観察が可能)
比較的単純かつ脆弱な領域を示していないのには一応の理由がある。おそらくこの領域は、自然淘汰や競争によって生き残りにくく、再現性と永続性を求めるビジネス活動上の分析対象(すなわち知的資源)になりにくいと考えたためである。強いてこの領域の例示を試みるなら、独裁的政治システムや群から逸れてしまった小魚などである。
分析アプローチの再考
科学的分析は、対象を可能な限り細分化し、統制された条件下で検証可能な関係性を見出すことを王道としてきた。疫学研究におけるPICOフレームワークのように、複雑な現象から再現性のある要素を抽出する試みとして実際に大きな成功を収めてきた。しかし先の研究が示すように、特に複雑で脆弱なシステムの分析においては、この従来型アプローチだけでは不十分である可能性が高い。その理由は以下の通りである。
- システムの複雑さと脆弱性により、部分的な切り取りが本質を見失わせる可能性
- 時間とともにシステムの性質自体が変化する
- 分析者の意識的・無意識的な選択が結果に与える影響が大きい
つまり、従来型のシステマティックレビューやメタアナリシスが完了する頃には、すでに分析の前提となる企業や組織のビジネス環境が変化してしまっているということだ。加えて、分析結果が細かい分析的判断の積み重ねの不確実性によるものなのか否かを検証する時間的猶予も与えられない。昨今の急速なAI技術の発展とそれに基づくビジネス環境の変化は、この観点を支持する一つの要因になると感じている。
新しいアプローチの提案
この状況に対応するため、二つの重要な概念を提案したい。分析の不確実性を積極的に認識し活用する「Analytical Bootstrap」という概念と、それを具体的な意思決定プロセスに落とし込む「解の育成」というアプローチの二つだ。
Analytical Bootstrapという視点
- 単一の分析結果ではなく、複数の視点や手法を組み合わせる
- システムの複雑さと脆弱性を考慮した柔軟なアプローチを採用する
- 分析の不確実性を積極的に認識し、それを踏まえた意思決定を重視する
最適解の探索から「解の育成」へ
- 複雑で脆弱なシステムにおいては、単一の「最適解」を特定することは本質的に困難
- むしろ、選択した解を「正解」に育てていく過程で、組織の安定性を高める
- 例えば、ほとんどの人生における重大な決断の成否は、決断後の行動と姿勢で決まる
これらの概念は、分析手法の精緻化という従来の方向性とは異なるアプローチを示唆している。精緻なバイアス対策や高度な分析手法の採用を“過剰“に追求するよりも、分析の不確実性を受容し、その後のビジネス行動の合意形成に注力すべき分析対象領域が存在するということである。
このアプローチは、特に環境変化の激しい現代の分析環境において、より実践的な価値を持つと考えられる。これを意識できないと、精緻科学の分析手法に長けた分析人材のポテンシャルを活かせないばかりか、画一的な分析人材の育成に陥るだろう。
結論
複雑で脆弱なシステムの分析においては、システムの特性を十分に理解し、それに適したアプローチを選択することが重要である。特に分析の不確実性を認識し、それを前提とした新しい分析パラダイムの発展が求められている。このアプローチは、単なる方法論の変更ではなく、複雑で脆弱なシステムの分析における認識論的な謙虚さ(epistemic humility)と、より適応的な意思決定プロセスの確立を目指すものである。
このような認識に基づき、筆者は現在、このアプローチを体系化した「分析者の育成プログラム」の開発を進めている。実務の現場では、分析者は意思決定者との関係性から、分析結果の報告時に過度な自信と単純化を求められる場面が少なくない。このような見せかけの自信と過剰な単純化を社会的スキルとして扱うことに疑問を呈し正面から対峙することが、本プログラムの目標の一つである。
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